火の聲1

　年の暮れとなり、大内裏ではさまざまな儀式・行事やその準備に追われ、誰もが忙しく立ち働いていた。
　とりわけ陰陽寮は多忙を極めていた。陰陽道で定められた吉凶禍福は、京の貴族の生活を事細かに支配している。季節の節目ごとの祭礼においても、陰陽師が目を配るべき事柄は多岐にわたっていた。
　そもそも『暦』というものが、陰陽寮が定めたものである。
　来年の暦については既に奏上を終えていたが、今度はその暦にのっとって、多くの祭礼の準備をしなければならない。
　泰明もまた、忙しく立ち働いていた。
　晴明が怪我を負い、芦屋道満がいつ手出しをしてくるかわからない状況では、泰明は晴明のそばに常に控えていたかった。しかし歳末という状況がそれを許さない。
　なんとか吉昌だけは常に晴明のそばにいられるようにしているが、その分、泰明と吉平が陰陽寮での采配や貴族相手の依頼を引きうけている。
　そんな忙しい中、泰明の耳に入ってくる話があった。
　――右大臣が呪詛されているらしい、と。
　邸に怪異が起こり、それを鎮めるために雇われた陰陽師たちも次々と呪いを受けていると言う。事実、寮の陰陽師の数人が、障りを受けたことを理由にここのところ出仕を控えていた。右大臣の依頼を私的に受けた者たちだろう。復帰の予定は、今のところ泰明の耳には届いていない。
（右大臣の下には、あの播磨の法師がついていたのだったな）
　なにか嫌な予感がした。式を使わして、詳しく調べるべきだろう。
　だがさしあたっては、目の前に山積する陰陽寮の仕事を片づけねばならなかった。
　泰明は腕にずしりと重い紙の束を抱えなおして、奥にある部屋に向かう。
　部屋に足を踏みいれかけて、ふと、たちどまった。
　風もないのに、几帳が揺れている。
　揺れている、と言うよりは、誰かが揺らしているような。不規則で重い揺れ方だ。
　だが几帳のうしろには、巻物を収めた櫃があるだけのはずだ。人がひそんでいられる隙間などない。
　しかし几帳は揺れている。ぱさり、ぱさりと、鈍く微かな音をたてて。
「――…」
　泰明は几帳の裏に意識を集中させた。何者かの弱い気配がたしかにある。だがとても弱い。雑霊だろうか。どこかで見知っているような、そんな印象もするが――
（？）
　弱い気配が完全に消えた。同時に
「――泰明？　どうしたんだい、そんなところに立って」
　今やすっかり耳に慣れた張りのある声に、泰明はふり返った。
　橘友雅が、武官束帯を緩やかに着くずして、渡殿に立って泰明を見ていた。
「友雅」
「こんな重そうな書類の山を持って」
　友雅は微笑みながら泰明に近づくと、その手から書類を取ろうとする。泰明は慌てて書類をしっかりと抱えなおした。
「おや。私にも持たせて欲しいのだけどね、泰明？」
　深い瞳で見つめてくる友雅から、目をそらせたい。だが泰明は強いて友雅を正面から見つめ返し、答えた。
「お前がそのようなことをする理由などない。これは私の仕事だ」
「書類の中身はね。運ぶのは、誰がしたっていいだろう？　ずいぶん重そうだよ」
　泰明は答えず、友雅に背を向けて部屋に入る。
　その泰明を、友雅は背後から手を回して書類ごと抱きしめた。
「――友雅！」
「せめて半分なりとも。ね、泰明」
　そう言って、泰明のうなじに唇で触れた。思わず力が抜けた泰明を、友雅は文台のそばへ、さらうように連れていった。
「友雅！」
　書類の山がくずれそうになるのを、友雅に手を添えてもらいながら、なんとか文台のうえにおく。結果的には、たしかに書類を運ぶのを手伝ってもらったと言えるが。
　泰明がにらんでも、友雅はくすくすと楽しそうに笑っている。
　その目がふと、それと気づかないほど微かに曇った。
「……相変わらず、たいそうな仕事の量だね。きみが優秀なせいではあるのだろうけど、それにしてもきみの兄弟子殿たちはなにをしているのかな」
　泰明の髪をゆっくりと撫でながら言う。
「――彼らには彼らの仕事があり、忙しくしている。ただでさえ歳末だというのに、私や吉平、吉昌の出仕がままならないので、よけいに仕事が滞るのだ」
「たまには彼らを困らせてやってもいいと思うけどねぇ。道満のことがあるし、きみはそれどころではないはずだよ」
「そのようなことはできぬ。私は陰陽師として――」
　泰明が言い返そうとするのを、友雅は微苦笑して遮った。
「きみは少し、人に任せたり頼ったりすることも覚えた方がいいね。道満はともかく、禁中の雑霊や鬼などは、寮の兄弟子殿でも充分に祓えるだろう？」
「雑霊…」
　ふと聞きとがめて、泰明は几帳の方を見た。
「泰明？」
「…先刻、友雅が来る直前に、そこに雑霊らしきものがいたのだ」
「えっ？」
　友雅が慌てて振りかえる。
「今はもう気配も残っておらぬ。本当に弱い霊だった。友雅の強い気が近づいたせいで、かき消えてしまったのだが」
「…」
　友雅は天を仰いで、ため息をついた。
「きみの兄弟子殿たちは、よりによってこの陰陽寮に、そんな雑霊の侵入を許してしまっているのかい？　やれやれ…それではきみも忙しいはずだね」
「あ――そういうつもりでは…」
　たしかに陰陽寮には結界が施されている。しかしこの時期、陰陽寮だけでなく大内裏全体が忙しくしているのだ。そのような人の出入りの激しい場所では、結界にもほころびが生まれる。雑霊や陰の気は、けっきょく人の心に付随するものだからだ。
　おまけに、どのみち大晦日の追儺の式で一掃するという心づもりもあって、どこの結界もほころびたままになっている。
　だから、雑霊が泰明の部屋にいたことも、そう不自然ではないのだが――
（だが、あの気配――なにかが気になる…）
　泰明のもの思いはそこで断ちきられた。友雅が、泰明の頬に触れてきたからだ。
「泰明。せめて体には気をつけて欲しいね。そして、私ができるようなことがあればなんでも任せたり頼ったりしておくれ」
「…友雅には、既にもう充分よくしてもらっている。もうこれ以上は」
「きみは無欲だね、泰明。そこが可愛らしいところでもあるけれど…」
　友雅は、泰明の頬に触れていた指先をすっと移動させると、泰明のあごを少し持ちあげた。そして顔をよせると、泰明に口づけする。
　こうした行為も、もう何度目だろうか。折りに触れて、特に近頃は会うたびごとに、友雅は泰明にこうやって触れ、口づけてくる。
　最初の頃にくらべて、今はこの行為も怖ろしいと思わなくなった。特に目を閉じることを教えられてからは、なにか、らくになったようにも思う。
　だが怖れが薄まったぶん、泰明の奥深くで、別の感覚が生じたように思えた。
　うねるようなその感覚は、ひどく漠然としてとらえがたい。
　いや、泰明自身が、その感覚を把握することをためらっているのだ。
　その感覚が表層に出てくれば、自分の意志も理性も、すべて流されてしまいそうな気がする。
　それが、怖い。
　友雅が深く口づけてきた。
　途端に、ぞくりとあの感覚が体の奥でうごめくのがわかって、泰明は慌てた。
　抗議の声をあげようとしたが、舌を深くとらえられていては、鼻にかかった高い声がやっと出るばかりだ。
　その声が自分の声であるとはとても思えなくて、泰明はますます混乱する。
（――怖い……！）
　目眩に襲われそうになる刹那、ようやく友雅が泰明を解放してくれた。
　泰明はいそいで顔を背けたが、友雅が微笑を浮かべているのは、なぜかわかった。
「泰明。私が意地悪なことをするとお思いかな？」
　優しい声で友雅が問う。だが泰明は、顔をあげることすらできない。
「………」
「けれど私も、こうすることで自分自身を追いつめているのだから。哀れだと思って欲しいね」
「――え…？」
　泰明は思わず顔をあげて友雅を見る。友雅は、ひどく澄んだ瞳で泰明を見つめていた。
「無垢で無欲なきみも可愛らしいけどね、泰明。願わくば、我が侭や欲望というものも、少し覚えて欲しいものだ」
　友雅はそう言うと、泰明の額にひとつ口づけを落とし、立ちあがった。
「あ…友雅…？！」
「ではまたね、泰明」
　友雅は侍従の香の薫りを軽やかに残して、部屋を出ていった。
　泰明は文台の書類に向くこともできず、ただ友雅が去った方を見送っていた。
　――そのとき。

　ぱさり、ぱさり。

　泰明の背後で、几帳がまた揺れはじめた。
　まるで、身動きのとれない泰明をあざ笑うかのように。

「――右大臣殿が呪詛をね。京に放った式神たちもそう言っていたな」
　晴明は脇息に寄りかかって、独り言のようにつぶやいた。
　まだ床をあげることはできないが、それでも経過は良好で、先日は晴明の住まう東の対に戻ることもできた。
　晴明の前には、吉平と吉昌、そして泰明が座している。
　晴明は目を閉じて、しばらくのあいだ瞑想した。
「――右大臣殿を呪詛しているのは、どうやら播磨の法師のようだよ。右大臣の手の者に殺されているようだね。怨みがとても深い」
　泰明たち三人は、顔を見あわせる。
「……つまりそれは、父上と泰明への襲撃に失敗したことで、口封じに殺されたと言うことでしょうか？　その怨みで、怨霊になったと？」
「たぶんね。私の双節棍の一撃は致命傷ではなかったろうし」
「右大臣にしろ法師にしろ、自業自得と言うところですな」
「だからと言って私たちに無関係のことではないよ、吉平」
　晴明がたしなめるように言うと、吉平は素直に頭を下げた。
「しかし――どうしますか、父上？　放っておくわけにも参りませぬが、下手に手を出せば道満につけいる隙を与えてしまうかも知れませぬ」
　晴明は肩をすくめた。
「もう手遅れかも。道満殿は、既に右大臣殿と法師に手を出しているようだし」
　晴明の言葉に、ふたたび三人が顔を見あわせる。晴明はこつこつと、脇息を指先で叩きながら言葉を継いだ。
「なんかさ。死んでまだ日が浅いのに、法師の怨みがえらく純化されてるような感触があるんだよね。
　吉平たちは直接播磨の法師に会っていないからわからないだろうけど、あれはなかなか俗な野望を持った男だったよ。金に権力、名声。土地、女、酒。良くも悪くも人間的な男だった。なのに今はそういう臭いがしない。…これじゃもう説得して浄化するのは無理だ」
　吉昌が言葉をはさむ。
「つまり、道満が播磨の法師の人格を奪い、怨念を利用していると？」
「たぶんね。だいたい、そんな強い怨霊になれるような男じゃなかったよ、あの播磨の法師は。法師の怨念の背後に、なにかいる」
「では、右大臣が呪詛されているというのも、父上や泰明を狙うための、道満の策略のひとつでしょうか」
　吉平がちらりと泰明を見ながら晴明に問う。
「その可能性はもちろんあるね…もしかすると道満殿のことだから、そもそも今回のことまで見越して、右大臣殿と播磨の法師が手を組むのを傍観していたのかも」
　吉平は眉をひそめた。
「まさか、そこまで」
「とは、私も思うけどさぁ。そういう可能性を思わせるところが、つまり道満殿の『力』なんだよね」
　泰明をのぞく、晴明、吉平、吉昌がそろって深いため息をついた。
「……まったく、厄介な…」
「ともかく、あらゆる可能性を考慮して対策を考えましょう。まずは右大臣殿への呪詛ですが――」
「うーん、播磨の法師の死体があったら、道満殿の法師への干渉を解除できるんだろうけど…それも道満殿が先に見つけてしまってるんだろうなー」
　晴明は頭をかきながら、ぶつぶつとつぶやく。
「とりあえず、式神を送って調べさせよう。あと、吉平は右大臣殿の邸の方を、泰明は内裏の方にも気を配っていて。吉昌は、そのぶんこの邸の護りが手薄にならないよう頼むよ」
　泰明たち三人はうなずいた。
　話が終わって吉平と吉昌が腰をあげようとしたとき、泰明がためらいがちに口を開いた。
「――あの…お師匠」
　泰明がこんな風に話しかけてくるのは珍しいことだ。吉平と吉昌も腰をあげかけたのをまた下ろして、泰明を見る。晴明は、先を促すように泰明をのぞき込んだ。
「今日、陰陽寮の私の部屋に雑霊がおりました。とても気配が弱くて、正体を見きわめることができなかったのですが――」
「寮に？　道満殿に関係のある奴かな？　それともお前の見知っている奴？」
「それすらわかりませんでした。他の者が部屋に近づけば、その気配だけで消えてしまうような弱い雑霊で…でもなにか、気になって」
　晴明は目をこらして泰明を見つめる。吉平と吉昌も、泰明を凝視した。
　しばらくして、晴明は吐息混じりに言った。
「――だめ。すごく波長が弱くて、話を聞いただけじゃぜんぜんわからない…吉平、吉昌、お前たちはどう？」
　吉平と吉昌も首をふる。泰明はうつむいた。
「申し訳ありません。やはり私が気にしすぎただけのようです」
「そんなことないよ。気になるのは、なにか意味があるからだよ。その意味が、今は誰もわからないだけで」
「…いいえ。こんなときに、些末なことで心を乱してしまって…」
「そんなことないってば。ねぇ泰明？」
　晴明は、どこか頼りなげな様子でいる泰明に、気遣うように優しい声をかけた。
　けれども泰明には、その声は届いていなかった。泰明の耳には、几帳がけだるげに揺れる音だけが、繰りかえしよみがえっていた。
　ぱさり、ぱさり――
　いったい誰が、あの几帳を揺らしているのだろう。なぜあの弱い気配が、こんなにも気になるのだろう。